『言葉が鍛えられる場所ー思考する身体に触れるための18章』
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2020-12
わたしは言葉にするのがずっと苦手である。
できれば実態のないもので、心の中に留めておきたい。
そしてそのうち消えれば尚更良い。
それでも、ふとしたときに、言葉に残しておきたくなることがある。
誰に読んでもらうでもなく、届けたいわけでもなく、 自分の言葉への不信感もありながらも、ただ発してみたくなる。
声に出すことはできなくても、 悩み、書いては消し、また書いて、消す。
そして最後の最後まで残された言葉が、少し背伸びをして並んでいる。 背伸びというより、襟を正しているのに近いだろうか。
ここにいてもいいけどさ、 その代わり、しゃんとして、静かにね。
そうやって並ばされた言葉たちは、 ちらちらと外を気にしてはいるものの、ただそこに居続ける。
時が流れて、いつか自分という生身の存在もいなくなって、 どこの誰かも知らない人に触れてもらえたときに、はじめて本当の意味で言葉は力を発するのではないかと、時代とともに残されてきた言葉に触れて思うようになった。
というのも、こんな自分都合な解釈をしても良いのではないかと思わせてくれる本にたまたま出会ったからだ。詩人たちの言葉に対してそう感じるのである。彼等も言葉の力など信じてはいなかったのではないのか。
言葉は あまりにも 便利で そして、あまりにも 無力だ 本にはそう書いてある。 こう言い切れるようになるまで、一体どれほど言葉と向き合い、生きていかねばならないのだろうか。
わたしにとって言葉は、あまり便利なものではない。 無力でさえもないのだ。もはや。 自分から出てきたことが、大切だったりする。 数少ない、自分がいたという証なのだ。 まるで自分がエッセイストになったつもりでこんなことを考えるのだが、妄想の世界で生まれる私の言葉は、虚しく浮かばれない。
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「言葉が鍛えられる場所ー思考する身体に触れるための18章」著者:平川克美